9月 第25回 川上善六翁 遺徳碑(市川梨の産みの親)

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[#葛飾八幡宮の参道、市民会館前に川上善六さんの解説板が新しくたてられたの、ご存知ですか? デカイ石碑があるのですが、文字の刻み方が浅くて風化されて、ほとんど判読不可能。そこで新しく遺徳を偲ぶ解説を、市川市農業青少年クラブがたてたのだそうです。
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善六さんの生まれは、寛保2年(1742)。市川のナシ栽培の元祖です。
それにしても、市川に「農業青少年クラブ」があること、全然知りませんでした。創立50周年の記念事業だそうです。いっそうのご活躍を期待しています!(高野史郎)
(由来説明)
千葉の梨栽培は「市川の梨」から始まった
{市川梨の起源}千葉県の梨栽培の産みの親とも言える川上善六は市川市八幡に(字を猛慶と号し、寛保2年(1742年)1月3日に生まれ、文政12年(1829年)5月9日87歳の高齢で亡くなられております。)生まれました。

川上善六は幼児より書を好み、学識に富んでいたので農業の傍ら、手習師匠もしていたというから、当時の知識人だったのでしょう。特に殖産興業に熱心で、八幡地方が砂地であるところから、どんな作物が適するかを探していたようです。諸国漫遊を試み、たまたま美濃の国大垣辺りで梨栽培を見て関心を高めたようです。ここの土質が八幡地方に似ていることから、梨栽培が八幡でも出来るのだろうかと思い、その枝をもらい受け、旅の道中に枯れないようにと大根に挿して持ち帰り、今の八幡神社の付近に接木苗を植えたそうです。
接穂はうまく活着して3年後に結実しました。その梨を美濃梨と名づけて江戸神田の青果物問屋に持参して好評を得ました。その頃八幡村は蔬菜栽培が中心でしたが、収入が良い物ではなかったのでたので、江戸の評判を聞いた村人は先を争って梨の樹を探して梨畑を作ることに専念したようです。その為、享和の頃には梨畑もだいぶ増え、神田市場への出荷も増えていったようです。

この梨は非常に高価なので神田市場の店頭では毛氈を敷いて梨果が痛まないようにしたといわれています。文化の頃になると青果問屋の遠州屋長三郎が八幡梨を一手に売り捌くことにし、幕府の御用達や諸侯にも納入したので名声は挙がる一方だったといわれています。そして、現在も市川梨として東京市場において一番銘柄として、プライスリ-ダ-として全国の梨を牽引しています。これが市川梨の起源とされています。(宇佐美)
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by midori-kai | 2012-09-16 06:25
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市川市の山林所有者が集まり、自然景観【里山緑地】を守る会です。地球温暖化や樹林地とのつながりを考えています。


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